Precinct
境内
山門
薬医門形式の山門です。妻飾りの懸魚彫刻には非常に繊細な彫刻が施されています。山門は高い場所にあり、本堂までは神明坂に沿った下り坂となっています。山門と本堂のどちらから見ても、斜面に真っ直ぐ伸びる石段が独特の美しい景観を生み出しています。
鐘楼
鐘楼は江戸後期の文政八(一八二五)年に建立しました。唐獅子と牡丹の籠彫や波と亀をモチーフとした虹梁など、当時の貴重な彫刻が施されています。弘化二(一八四五)年の青山の火事にも焼失することなく、当時の美しい姿を今に遺します。戦時下には金属回収令が公布され、この鐘も供出しましたが、使われることはなく戦後戻ってくることができた貴重な鐘となります。
井戸
龍原寺の山門を抜けた先には昔ながらの手漕きポンプ(慶和製作所製)の井戸があります。井戸からは、今もなお枯れることなく透明な水が湧き出ています。昔ながらの風景を残しながら、何世代も受け継がれてきた井戸の水。寺院を訪れるお檀家の方々には、お墓参りの際など日常的にご利用いただいています。
玄関
境内に入りますと、突き当たり奥の左手に木造平屋建ての建物があります。ご法事など、御用の方はこちらの玄関よりご来訪ください。
大広間
お座敷は二部屋あり、法事を行う際には待合室やお食事処としてご利用いただけます。お部屋は襖で仕切られていますが、大人数など広くご利用いただきたい場合は襖を開けて一部屋としてご利用いただくことができます。正座が苦手な方や膝を曲げるのが困難な方も安心してご利用いただけるよう、お座敷でもソファを配置したお部屋もご用意しております。廊下を挟んで庭園を眺めることができ、ゆったりとお寛ぎいただける空間です。
本堂
弘化三(一八四六)年に建立された龍原寺本堂は、寺院としては珍しい土蔵造りの本堂です。これは、大火が頻出していた江戸時代後期において、延焼防止に配慮した建築様式と伝わります。また、向拝や内部には、左官による美しい具象彫刻や漆喰彫刻が施されていることも特徴です。
質実な機能性と華やかな意匠性を併せ持つ、江戸時代後期 港区域の寺院建築の特色を読み解くことができる貴重な寺院建物です。
庭園
四季折々に豊かな表情で魅せる日本庭園です。春には梅、夏は紫陽花、秋は紅葉などが彩ります。池や岩石などを巧みに配置し、日本の美しい情景を表現しています。庭には木々に引き寄せられた小鳥たちが舞い降り、軽やかで美しいさえずりを響かせます。池には奉納されたうなぎが暮らしています。
築山
日本式のお庭に人工的に築かれた山のことを「築山(つきやま)」と言います。龍原寺の築山からは自然豊かな庭園と木造平屋建てのお座敷、土蔵造りの本堂などを一望するができます。都会の中でも穏やかな自然を感じることができる、心和ませる風景です。
お稲荷さん
龍原寺の庭園の片隅に昔からいるお稲荷さん。同じく三田一丁目にある元神明宮様から毎年御札をいただき、大切に祠に祀られています。お稲荷さんの足元には作者と思われる「鉄五郎」の名が刻まれています。古くからある祠のため残された文献が少なく、造られた年代やいわれ等は明確にされていません。
江戸氏の墓
台石とも高さ約二メートル、尖塔形の正面に江戸氏之墓。
[左側面]
天文五年従武蔵国江戸荘移阿波国阿波郡伊月村 寛永年間有故江戸氏称伊月 明治廿四年四月復江戸氏 従五位勲四等裔孫江戸一郎長誌
[右側面]
明治辛卯秋依父命 合葬再建之 江戸四郎重徳 石工鈴木雲岱刻
この墓は明治二十四(一八九一)年、増上寺塔頭の貞松院から移したものです。天文五(一五三六)年は太田道灌が歿してから五十年目に当たり、当時の江戸は北條氏綱の治めるところでした。この江戸氏の墓が、かつて武蔵国の大福長者として君臨した江戸太郎重長の末裔か、またはその一族の墓であるかは調査の手がかりがありません。
安積光角の墓
高さ一三六センチ、幅三〇センチ、正面に安積光角先生墓。
[碑銘]
先生諱尚義字光角号棋山其先赤松氏出於 村上帝世住播磨佐用郡其邑先生四世權之助 棊応豊臣氏之墓出寓千浪華城誠陥而投棊矦 矦□賽礼待馬給賜禄秩以迄先生先生年廿有 三辞禄為処士遊学京師適遇北渓道人干洛下 従受兵法寘習陰陽五行望気観相及業就来居 東都以相術大行天保七年七月九日丁世享年六十其族猶盛干薩云 天保八年五月 嗣業門人光徳謹誌 鼎斉 生方寛書
光角は当時著名な売ト者でした。その門人の飯田武貞は安積姓を継ぎ安積五郎と名乗り、清河八郎らと交友がありました。文久三(一八六三)年、中山忠光の大和挙兵に参加して捕えられ、元治元(一八六四)年二月、京都六角の獄で刑死しました。のちに従五位が贈られました。なお、碑文の書、生方鼎斉は当時名の高い書家です。
東門
江戸期築、龍原寺の中で最も古くからある建造物です。弘化二(一八四五)年の青山の火事でも焼失せず、二百年の歳月を経てその姿を今に遺します。趣きのある風情を湛えながら、神明坂へ直結する裏門として、今でも檀家の方々に利用されています。
道路石標
この石標は龍原寺の裏から長久寺へ曲る角にあります。標に「道幅貳□五□元禄十二己卯年五月廿八日」と刻まれています。慶安元(一六四八)年、大中寺がこの角に移ってきて、寛文五(一六六五)年には龍原寺が八丁堀から移転しました。つづいて、長久寺、当光寺、円徳寺などの寺院が建立されて、寺院町が形成されるに至りました。その初期の境界を示す遺跡かと思われます。
志ほあみ地蔵尊
志ほあみ地蔵尊は、龍原寺が八丁堀に創建された元和七(一六二一)年頃、そこで潮を浴びていたことから「しほあみ」の名がついたとされる地蔵尊です。
寛文五(一六六五)年の龍原寺の三田への移転の際、共にこの地に引っ越してきたました。以前は境内に安置されておりましたが、昭和二八(一九五三)年に道路に面した場所に遷座(移設)したため、現在では子育て・延命のお地蔵様として近隣の方にお参りいただいております。
地蔵尊のお祭りは毎年三月に行われ、町内の方により組織された「地蔵講」により運営されています。
寺宝
諸処に龍にまつわるものがございます。
本堂向拝天井 昇り龍 鏝絵
1955年に黄綬褒章を受章された故・杉山三郎氏(元本左官業組合連合会会長)の手による秀作。杉山三郎氏は生前に当寺檀家総代を務められました。
雲龍図衝立
衝立の下部には「明治辛卯六月上院 桃湖十三歳筆」と記されており、明治時代に活躍した絵師 根本桃湖の作品と伝わります。
雲龍図衝立は、表面に一匹の龍を大胆に配しながら、裏面では同じ龍を上空に飛翔させ、僧侶や虎と共にひとつの世界観を描き出しています。
狩野晴川院養信
源氏物語図屏風
狩野晴川院養信は、江戸城西の丸御殿や本丸御殿障壁画制作の総指揮を執るなど、奥絵師である狩野派の最後の大家と評されます。養信は婚礼調度品として源氏物語屏風を多く制作しており、本作でも着物や調度品など細部に至るまで華やかに描かれ、絢爛豪華な屏風図に仕上げています。
狩野晴川院養信
竹図屏風
清々しい竹の緑青が総金地に映える優雅で爽やかな竹図屏風です。
狩野晴川院養信は、江戸幕府奥絵師 木挽町狩野家九代目として、生涯に渡り研鑽を積みました。現存する作品は、ボストン美術館、大英博物館、東京国立博物館など、国内外の美術館に所蔵されています。
釈迦涅槃図掛軸
お釈迦様が入滅した時の情景を描いた図で、入滅されたことを「涅槃に入る」と言うことから涅槃図と言われています。横たわるお釈迦様の周りには様々な菩薩や神々、人間や諸動物までもが駆けつけお釈迦様の死を悲しんでいます。多くの動物が描かれますが、猫は珍しく希少性が高いと言います。この涅槃図では、右下部に虎柄の猫が座っています。
寒山拾得衝立
寒山と拾得を彫刻した衝立。寒山と拾得は中国の唐代に実在したとされる伝説の詩僧です。詩作に耽る一方で、世俗を超越した奇行ぶりは人々に特別視され、いつしか寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれました。二人はとても仲が良く、いつも一緒に遊びまわります。この衝立も、寒山と拾得の楽しいやりとりが聞こえてきそうな、いきいきとした息遣いが感じれる作品です。










































